株式会社 高知丸高 高野広茂社長

2014年4月18日(金) 高知会館

聞き手 高知県橋梁会会長 右城 猛

高知丸高の高野広茂社長
高知丸高の高野広茂社長
聞き手は,高知県橋梁会の右城猛会長 
聞き手は,高知県橋梁会の右城猛会長 

右城

高野社長、先ほどはご講演をありがとうございます。先ほどのご講演で、高野社長が杭あるいは杭にとどまらず、津波避難艇とか、多種多様なものを開発されています。驚くべきことだと思います。高野社長のこれまでの経緯ですが、高校は高知商業高校を卒業されています。その辺からこの業界に入るまでのことを少し紹介して頂ければありがたいですが、よろしくお願い致します。

 

高野社長

私は、高知商業卒です。専門的な学校は出とりません。開発の発想はどこから出てくるのだと皆に言われるのですが、農家の出なもので、学校から帰れば、カバンは放りっぱなしにして、春のスイカの植付け時期には、暖房用のむしろ掛けに行かされる毎日でした。冬場は、4、5人の友だちと山へ行き、ヒヨやツグミなどの小鳥の罠をかけ、収穫を競い合いました。取れる所は茂みの中の明るさのある所や、水飲み場がある所など決まっていますので、罠を掛ける場所を決めるにも考えなければなりません。また、遊びに行くには、家の手伝いを早く終る工夫や段取りをいつも考えていました。そうした日頃の勉強以外のことで、競争心や知恵が備わってきました。

 

右城

ありがとうございました。そうすると、自然の中でいろいろな知恵を付けるというか、学んだということですね。そして、高知商業高校を卒業されて、高知通運に入社されていますね。高知通運でどのようなことをされていたのでしょうか。

 

高野社長

高知商業高校時代は、三年間、高知大丸へアルバイトに行きました。売り子、レジなどの社会勉強を多くしました。今でも包装はプロなみです。高校を卒業し、高知通運に入りました。最初は、荷物担ぎ、運転手から始まり、総務、資材、営業、観光、重量物など、すべての部署を回りました。大阪駐在員にも出されました。その当時、高知は日本一の園芸王国でした。毎日、50両の貨物を大阪市場へ確実に届ける仕事でした。夜は10時頃までに大阪の吹田操車場へ行きお願いし、朝は4時頃に市場に着いているかを確認する毎日でした。この時は、責任のある仕事でしたので、体も痩せ細っていました。

最後は日本通運から、早明浦ダムの駐在員に要望され、勤務しました。私は、会社に10年間勤めたら独立しようと最初から決めていましたので、10年で独立し高知丸高運輸を設立しました。

 

右城

そうすると、いろいろな経験が後々役に立ったということですね。日本通運に入られまして、それから高知丸高運輸を設立されるわけですが、その高知丸高運輸ではどういうことをされていたのですか。

 

高野社長

会社を設立した当時は、前の会社の高知通運、日通の先輩方の協力により、荷物を頂き、園芸物、ビール、米などを輸送しておりました。しかし、感と技術のいる重量物の輸送・据え付け工事が性に合っており、無事に完成させた時の感動と喜びが忘れられずに、その仕事に進んでいきました。

高知では、電話局の鉄塔やパラボラアンテナ、須崎の日鉄興業のベルトコンベヤ、早明浦ダムのケーブルクレーン、大渡ダムのバッチヤープラントを始め、奈良の十津川の奥吉野ダム、和歌山の火力発電所など、間組には大変お世話になり、全国のダム関係を渡り歩きました。その間に私は大きな事故に遭遇し、体の骨が28本も折れるということも経験しました。

思いに残っている仕事は、始めた頃に、ジョン万次郎の銅像を東京の上野美術館から久札板の地道を2日間かけて足摺岬まで運んで建てたことです。

 

右城

早明浦ダムの施工をしていた間組からの仕事とか、ジョン万次郎の銅像を運ぶ仕事とか、いろんな仕事を任されていますね。その時代に、他にはそういう仕事をされている人はいなかったのでしょうか。

 

高野社長

私たちの年代には、頑張り屋が多かったです。同じ年代では、技研製作所の北村さんなど成功した人が多くいます。その時代の人々は大学へ行くにも金がなく、物もない時代であり、血の出るような努力をしなければ飯が食えない時代でした。命をかけて仕事をした方が、高知のトップ企業になられています。

輸送も県外輸送は、列車輸送がほとんどで、トラックも少ない時代でした。その後、トラック輸送が増え、高知通運も成長されました。チャンスをつかめる時代でもありました。

 

右城

北村さんというのは、いま高知技研製作所の社長をされている北村精男(あきお)さんですね。北村さんと同じ職場には、和住工業の社長の横矢さんもいましたですね。そういう方がいま、高知では成功されて、大変ご活躍をされていますが、と言って誰もが成功されたわけではないですよね。振り返って見た場合、成功された方と、そうでない方に何か違いがあるとすれば何だとお思いでしょうか。

 

高野社長

運もあると思います。非常に危険な現場で死に物狂いで働いていましたが、私の場合には幸い命に影響するような事故には遭わずにすみました。もしも、死ぬような事故に遭っていれば今はありません。

仕事は、これだと定めたら最後までやり通すことです。仮に会社が成功したとしても、100年持つ会社はほとんどありません。日々世の中は変わっております。競争に勝って行くには、新しい技術に挑戦し、日々努力を積んでいけば必ず勝てると信じ、逃げないことです。

 

 

右城

チャレンジをしてゆくということが非常に大事なということですね。高知丸高といいますと、最初は基礎工事、基礎杭からだんだんと内容が変わってきていると思うのですけど、基礎から橋梁のSqcピアとか、津波避難艇とか時代時代のニーズに応じて変わっていますが、そのあたりのことについてお話し下さい。

 

高野社長

昭和49年の台風では、高知市内は大水害を受け、河川が氾濫しました。護岸の補強に鋼矢板を打ち込む工事が多くあり、技研製作所の北村さんは開発した圧入機サイレントパイラーを使い、私はオーガー圧入機で挑戦しましたが、先輩の北村さんには負けました。それで私は、岩盤掘削へ進みました。日本では2台目となるロックオーガーを購入しましたが、4、5年間は引合いが少なく、苦しい時期がありました。しかし、基礎杭を支持杭として岩盤まで根入れしなければならなくなり、一気に岩盤掘削の高知丸高が全国から脚光を浴びるようになりました。その後は、ダウンザホール工法、重錘工法、スーパーガイドパイル工法を開発し、岩盤削孔協会会員の中で、大口径(直径600mm以上)の施工本数では全国一位の実績を積み重ねています。

また、広島空港大橋では、猿も近づけない難所で桟橋構台の工事を依頼され、橋の架設工法としては、これまでとまったく逆の方法ですが、上部工を先に架けて、その後で橋脚を作るというSqCピア(セクシピア)工法を開発しました。

また、スマトラ地震津波災害後に大手商社から依頼されて津波避難タワー、津波避難シェルターの開発に高知工科大学と取り組みました。いずれ日本にも地震・津波が来る。建設業がやらなければならない復興復旧に用いるための機械開発に約9年間取り組み、今も研究開発をしています。また、これから私どもの技術開発した製品が、海外の開発途上国にも必要となると思います。人道橋など新たな技術開発にも取り組んでいます。

 

右城

高野社長を見ていますと、いろんなアイデアが次から次に浮かんでくるようですが、そのアイデアは高野社長一人のアイデアでしょうか。それはどんな時に浮かんでくるものなのでしょうか。

 

高野社長

45年も仕事ばかりやってきたので、あらゆる現場を全国津々浦々、沖縄から北海道まで、たくさん回ってきました。また、海外でのドイツのパウアー社、フランスのピーチーシー社など海外の機械展で特殊な機械を見学し、日本の技術よりも優れた製品があれば、即納入します。例えば、チリ鉱山事故では、地下600メートルを掘削し、人命救助をしたアメリカのセンターロック社の現場へ行き、そのときに使った岩盤掘削機ダウンザホールを購入しました。

私くらい現場を経験している男は少ないと自負しております。

アイデアは現場から生まれております。また、毎日、反省し、考えています。最近では、ものづくりを考えることを楽しんでおります。寝る前には、私の夢を追うような開発について考えています。すると、すぐ眠気が起こります。夜中に一度目を覚ましますと、また開発のことが頭に浮かんできて、アイデアが出てくることもあります。朝には、前日のことをいろいろ反省し、その日の段取りを考え、布団から離れます。会社に着けば、頭はフル回転状態で朝礼に挑みます。ハングリー精神が大切です。

 

右城

高野社長の行動についてご家族の方に聞きますと、食事をするときでも、色鉛筆を握り、アイデアを書きながら食事をするということてすが、24時間体制で考えているというわけですね。

 

 

高野社長

それは、専門学校も出ていないし才能もないので、いつも考えを記録に残す毎日です。

 

右城

先ほど協力者が必要なというお話がありました。高知工科大学と共同研究されているというお話がありました。それから、いろいろな分野の友人がおられるように思うのですが、高知工科大学の先生の役割とか、こういうことが組んでよかったという事がありましたら教えて頂けますか?

 

 

高野社長

高知工科大学とは、12、3年前より研究開発で協力をしていただいております。主に構造計算、実験の検証に協力してもらっております。また、橋などの専門分野に対してはコンサルタントなどの協力とか、油圧に強い機械屋さんとか、アイデアを備えた模型屋さんとか、皆さん特殊な技術を持ったプロの職人などたくさんの友人に協力していただいております。その方々と、社員、現場の者も加わって模型を見ながら、みんなでじっくり時間をかけ、考え、提案してもらって、最後に私が決断し、実行に移します。作った時に手戻りが少ないように努力しています。また高知県の補助金も活用し、応援も積極的にいただいています。

 

右城

模型を作って、皆さんで、あれやこれやと練るということですね。非常に練る割には、開発のスピードが速いと思うのですが。次から次に、新しい製品を開発されておりますので、非常にスピードが速いと思うのですが、そこら辺で何か心掛けていることはありますか。

 

 

高野社長

今はスピードが一番です。思いついたら、決断即実行です。これはオーナー経営者でないとできない仕事です。小企業の強みです。金もかかりますので、先を見る目も必要です。大手と違って、ハンコをもらいに回るような時間をかける前に、即戦力を発揮します。その中で当る製品は非常に少ないかもしれませんが、速実行することに努めています。

 

 

右城

 私たちは、開発するとき失敗したらという事をまず考えるのですけど、高野社長は失敗したらということは考えないですか。

 

高野社長

失敗しても満足しております。作ることに満足してやれば、肥やしになります。私どもの開発も20個くらい作っても、世に出る製品が1つあれば良いとしております。特に公共工事では、なかなか新製品は採用が厳しく、実績を必要とされます。しかし、誰かが必要とする日が来ます。また、評価をしてくれる日が必ず来ると信じて作っております。それが、5年、10年の長い月日を経て、実ることもあります。失敗も成功の元と考えてやっております。

 

右城

これまでで困ったことがあったと思うのですけど、会社経営をしてゆく上で、どのようなことがありましたでしょうか。

 

高野社長

会社を設立した当時は、前へ、前へと進むことしか考えておらず、振り返れば会社に一銭もお金がないこともありました。慌てて機械を売り払い、なんとか血の出るような働きをして潰れることは免れ、1から出なおすこともありました。

現在は、特に困るのは、人材の確保です。優秀な人材が欲しい。企業を伸ばすことができるのは人材次第です。昨年度、高知ぢばさんセンターで行った就職面談では、1000人くらいがいる中で建設業3社を訪問してくれた若者はたった50名だけでした。今年に入り、高知工科大学では100人中15人だけで、銀行マンとか菓子屋、IT関連などの仕事を希望しており、体を使い現場を好む者は少ないです。南海トラフ巨大地震が間近にせまっている高知県は、震災後の復興復旧に力を発揮できる若者が必要です。高齢者の多い建設業では対応できません。

 

 

右城

先ほどから少し話しが変わりますが、先日ぢばさんセンターで津波避難艇などの展示物を見せて頂きまして、これはどこの造船会社で作られたのですかという質問をしたところ、これは私が作りましたというお話しでしたが、それは実際どのようにして作られたのですか。

 

高野社長

高知丸高の工場敷地は一万坪あります。その中に製作工場が4棟あり、旋盤なども据わっております。そして毎年、外国より研修生を6名採用しています。技能は鍛冶屋さんですが、基礎技術のすべての指導をしております。工場では常時15名程度で現場に必要な機材、試作機などの製作、試運転実験をやっております。試作機などは自社の工場でやります。

 

右城

やはり外注したのでは、開発に結びつかないということですね。

 

高野社長

計画図面の模型などに基づき作りますが、度々手直しも発生します。それは先に述べた協力者にもときどき来てもらい、意見をもらい、改造もしています。また、実証実験では大型重機も使いますので広いヤードが必要となり、実験場を設置しております。外注では条件が整いません。

 

右城

ありがとうございます。高知県に会社があるということはある意味非常に不便な所にありますので、開発するときに、人材という面とかいろんな面でデメリットが多いのではないかと思いますが、逆に高知県にあるからこそできるというメリットもあるかと思うのですが、どのようにお考えでしょうか。

 

高野社長

高知は太平洋に面し、黒潮が間近に流れており、いわゆる黒潮民族です。先覚者には偉大な坂本龍馬、三菱創立者である岩崎弥太郎、総理大臣になった吉田茂などがいます。このような人達が生まれた土地です。協力者には都会以上の優秀な人材がたくさんいます。心はおおらかで、宵越しの金はもたない人種です。我が社の職員もさっぱりした気性をして、真面目で朗らかなので、安心できます。そのような人材に恵まれ、青い空、美しい自然があります。県外から来ても自慢できる魚、野菜、食材が豊富です。また、安い土地も取得できるし、不自由は何らありません。

建設技術者となる人材を育てるには、小さい時から自然にふれることの大切さを教えようと、南国工場の周辺にチビッ子村を作りました。その中には、冒険の森ブランコ(ターザンごっこ)、子供が届く高さの果樹園、動物触れ合い(ミニホース、ヤギ、地鶏)など、川には、アメゴ、ツガニを園児に放流させ、釣らせています。また、水車式発電機で電気を起し、キャンプ場の灯りにし、発明の面白さを自然と身につけさせています。周囲には、坂本城や亀岩城の城跡、明智十兵衛光秀長女光春の墓地があります。これらを活用して、地域の活性化につなげたいと考えています。

 

右城

今日はどうもありがとうございました。

 

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